中東のあたりの地理
メソポタミア
メソポタミアは川の間の土地という意味で、共にクルド人が住むトルコのアナトリア高原を共に源流とするチグリス・ユーフラテス川の間の土地、という意味で、比較的温暖で肥沃な平野で文明が栄えた。西側にシリアを通ってゆったりと流れるユーフラテス川(銅の意味?)に対し、チグリス川は「流れの速い川」と呼ばれる。チグリスがtigers虎の語源になっている。現在は全体としてセム語族のアラブ人であるイスラム教徒が住み、イラクが中心。
レバノン山地のバールベックあたりを源流とする地中海側に注ぐオロンテス(アシ)川流域はシリアと呼ばれる地域で、ユーフラテス川上流から途中のオアシス都市アレッポからなだらかにつながり、大半がシリアとなっている。シリアとイラクの国境は特段の地理的な特徴はなさそう。
アレッポからレバノン山脈に沿ってオアシス都市ディマシュク(ダマスカス エデンの園のモデルとされているらしい)、アンマン(古代はフィラデルフィアと呼ばれていたらしい)からワディに沿って、シナイ半島の付け根の紅海の港アカバまで。紅海は航海の難所で、係留できる場所も少なく、座礁したり海賊に遭遇したりするので、インドやペルシアやスワヒリの地からの船もアデンあたりで陸路に積み替えて、比較的温で水の得られるヒジャーズ山脈を進むことが多かったようだ。
オアシス都市アンマンを中心としたヨルダン、聖都メッカを中心としたサウジアラビアが礫砂漠に国境を設けたものと思われる。
サウジアラビアはヤマン(イエメン)との国境は砂漠の部分もしっかりとした国境になっているようだ。オマーンやUAEとの国境はパトロール用の道路が整備されている。イラク、ヨルダンとの国境もしっかりしているようだ。
ここは、サウジとヤマンとオマーンの国境。展望台? 左側にヤマンとの国境、下側にオマーンとヤマンとの国境の構築物。
ちなみに、「三大陸周遊記」によれば、関所破りを砂漠の足跡で追うのでひとりとして逃れることができないそうだ。
レパント
オロンテス(アシ)川は地中海岸北側の第一回十字軍のアンティオキアの戦いで知られるアンティオキアを流れ地中海に注ぐ。北側にはアレクサンドロス大王のつくったイスケンデルン。シリア領だったが、トルコ領となって、アンティオキアはアンタキヤと呼ばれている。シリアが領土を主張しているらしいけど、国境では往来されているようだ。
トルコはエーゲ海ではギリシアに大幅に譲歩させられたようだが、ここでは領土を確保することができたようだ。
その南にはシリアのラタキア、キリスト教が優勢なレバノンのベイルート、ユダヤ教が優勢なイスラエルのハイファ、テルアビブ、イスラム教が優勢なパレスティナのガザ、そしてエジプトのアレクサンドリアと古代からの港湾都市が点在し、エリアを中心として独立したものの、宗教的なこともあり争いが続いている。
イスラエルはユダヤ人の国ということだが、ヘブライ人もアラブ人もセム系民族ではある。
カフカス
アナトリアの黒海側からカフカス山脈の南麓をカスピ海までカフカス(ロシア語)(コーカサス)と呼ばれている。
黒海側はサカルトヴェロ(ジョージア グルジア)でキリスト教オーソドックス。独自の言語体系のカフカス語族らしく、細かく分かれていて、自治領などに分かれている。
カスピ海沿岸はアゼルバイジャンと呼ばれる地域で、イスラム教徒、トルコ系アゼリー人が住み、そのうち北側がアゼルバイジャンとして独立し、南側はイラン。間のリヒ山脈を分水嶺に黒海側にリオニ川、カスピ海側にクラ川が流れるので、素直には分水嶺で国が分かれそうだけども、サカルトヴェロの首都トビリシはクラ川流域にあり、カスピ海まで航行可能である。
その南側の山岳地帯にアルメニアが位置している。独立した言語体系のアルメニア人はかつてはアナトリア一帯に住んでいたが、トルコがアナトリアに侵入し、クルド人とともに、アルメニア人をカスピ海に注ぐクラ川に合流するアラス川支流アクフリアン川以東に追い出した形になった。アルメニア教会が廃墟になり残る。アララト盆地に首都エレバンが位置する。
アナトリア高原の東端、ノアの箱舟が地上に降りた地、と言われるアララト山(5165m)を境に(アララト山自体はトルコ領)トルコ、アルメニア、アゼルバイジャンの飛び地のナヒチェバン、イランが接する交通の要衝となる。エルサレムをさまざまな宗教が聖地とするように、アララト山もこのあたりの民族の象徴的な山であるようだ。カスピ海に注ぐクラ川に合流するアラス川がナヒチェバンとイランの境となり、その支流のアクフリン川がトルコとアルメニアの境になっていて、トルコがアララト山の部分だけ領土を伸ばしているような感じになっているのは、最終的な力関係がトルコが強かったからだろうか。
ナヒチェバンがアゼルバイジャンの飛び地となったのは、ソ連邦だったときの民族政策の結果であり、そうでなければ、周辺のどこかの国の一部になっていたのだろうと思う。その入れ子状にアゼルバイジャンの中にアルメニア系のナゴルノカラバフと呼ばれる自治領があり、かつてはアルメニアが優勢だったが、石油で潤うアゼルバイジャンが攻勢をかけているようだ。
イーラーン
アララト山の東、カフカス山脈から伸びるザグロス山脈がペルシャ湾に沿いに連なる。いったん礫砂漠で途切れたあと山並みがインド人殺しという意味のヒンドゥークシ山脈のアフガニスタン、パミール高原のタジキスタンにつながって広がり、その一帯にイラン系民族が住む。ザグロス山脈がアラビア海からの熱風を遮り、内陸は温暖で、イスファハンのある内陸河川のザーヤンデルート川流域など、山に囲まれているので水が得やすい。そしてカナートと呼ばれる地下水路が盆地を縦横に堀り巡らされている。google mapで縮尺100mくらいで探すと見つかる。古代からこれだけの地下水路を掘って現在まで活用していることに、民族の歴史を感じる。
石油が自然発火していたことに神聖を源にするらしいゾロアスター教が広まっていたが、しだいにイスラム教を受け入れてもシーア派として独自の地位を守っている。 ペルシア語はインド=ヨーロッパ語族の系統だが、セム語族のアラビア語のアラビア文字を受け入れることになった。
インド方面には、ザグロス山脈の終わりあたりのザヘダンからバルチスタンの礫砂漠を通ってクエッタに抜けるか、アフガニスタンのカンダハールからの礫砂漠を通って、ヒンドゥークシを越えてチャマンからクエッタに抜けてカラチに抜けるルート。カンダハールからヒンドゥークシの内陸水域となる谷筋を抜けてカーブルの位置するインダス源流のひとつカーブル川に沿ってアレクサンドロス大王も超えたカイバル峠からペシャワール、パンジャブ地方に抜けるルートがある。
中国へはパミール高原の合間のシルダリア源流ワハーン回廊を通って行くことができる。マルコ=ポーロも利用したしかし、そのあと砂漠が続くこともあり、カラクーム砂漠に消えるアフガニスタンの中央を東からヘラートを経て流れるハリー川に沿ってアシカバードへ、そして、フェルガノ盆地に抜けるルートが中心のようだ。
なので、アフガニスタンはインダスに流れるカーブル川流域、アラル海に注ぐシルダリア流域、トルクメニスタンのカラクム砂漠に消える中央部を東からヘラートを抜けるハリー川流域、カンダハールの内陸水域に大きく分かれ、それが支流の谷筋ごとに分かれていく感じ。
トゥーラーン(トルキスタン)
カスピ海、アラル海を中心とする内水域で、草原や沙漠が広がる。
アフガニスタンの北東部に細く伸びるワハーン回廊から中国に抜けられるが(マルコ=ポーロも通ったが)、その先にはタクラマカン砂漠、天山山脈が続くので、マシャドから北のフェルガナ盆地に抜けるルートの方がメインのようだ。 このルートはいわゆるシルクロード 草原の道。
ここはトゥーラーンの地 トルキスタン。トルコ系民族、アルタイ語族のトルコ語系の人々が暮らす平原が広がる。
アフガニスタンのパミールを水源とするシルダリアはワハーン回廊を通り、タジキスタンやウズベキスタンとの国境を形成し、サマルカンドからの支流を合わせ、トルクメニスタンとの国境を形成して今は干上がってしまったアラル海に注ぐ。キルギスタンの天山山脈を水源とするシルダリアはウズベキスタンのタシケントのあるフェルガナ盆地を流れ、カザフ平原を流れ、同じくアラル海に注ぐ。
トルクメニスタンは、アシカバードのあるハリー川流域が中心。
ウズベキスタンは、シルダリアとアムダリアの両方の中流域を持つ。
ペルシア湾
エリュトラー海案内記ではあっさりとしか触れられていないが、東方見聞録によれば、イラン シラーズの港ホルムズからはインドとの交易が盛んだったようだ。
一方でアラビア半島側は、砂漠が迫ることもあり、小さい港がクウエート、バーレーン、カタール、アブダビ、ドバイ、そしてマスカットのオマーンという感じで独立したようにみえる。カーディフからメッカへは沙漠を経た巡礼路となり、半島のほぼ全体がサウジアラビアとなった。
エリュトラー海案内記によれば紀元前からインドとイエメンのアデンとを季節風を使って直接航海していたみたいなので、後背地のない港はそれほど重要ではなかったようだ。