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紅海 東方見聞録 & エリュトラー海案内記 & 三大陸周遊記

「東方見聞録」は13世紀後半の大カーン(フビライ=ハン)の元に赴いたマルコ=ポーロの兄弟がキリスト教教皇との交流を持ちたくて教皇の元に遣わされ戻るときに、マルコ=ポーロがいっしょにたびしたときのはなし。

アララト山を望みながらタブリーズに至り、アフガニスタン北東の中国に細く伸びるワハーン回廊を通って大カーンの元に向かい、東南アジア、インドを巡って帰ってくる。地名も現在とは違っているし、道中に見聞した話も入っているので、実際どのようなルートを通ったのかは読むだけでは分からない。

そんななかで気になったところは、アデンでインドからの積荷を小舟に積み替え、7日運び、ラクダで30日運ぶとナイル川アレクサンドリア川)に出る、と記載されているところ。これだけの日数を他の町に触れずに日数の紹介だけで済ましているのが不思議で、実際、アデンからアレクサンドリアまでどのようなルートを通っていたのか。ヨーロッパに近くて皆が知っている道中だから省略したのだろうか?

アラビア海から地中海までのあいだには紅海があって、スエズの部分が陸峡になっていたが、ローマ時代にはスエズからナイル川まで運河が掘られていた、というので、船だけで行き来できていたらしい。そのあと運河が埋まって使えなくなってしまったが、スエズの地峡の部分だけ陸路で進めば済むのでは、と思っていた。そもそもそれだけ航海に使われるのならば、ローマ時代に掘られた運河を埋まるままにしておくわけがない、と思っていた。

どうやら紅海というのは航海にとって難所のようで、そもそも紅海自体を避けることが多かったようだ。入口のバベルマンデブ海峡は幅30km。浅瀬も多いらしいし、海賊も多かったらしい。

ナイル川までラクダで30日ということだが、紅海の沿岸のどこから上陸するにしてもナイル川までは200kmほどなので、ラクダで30日もかからない。

 

と、気になっていたら、「エリュトラー海案内記」というもっと古い時代の古典があることに気づいた。エリュトラー海とは紅海のことだと聞いていたので、まさにこれを読めば何かわかるだろうか、と思い読んでみた。

「東方見聞録」がまさにいろいろな町の見聞であって結構な記述であるのに対し、「エリュトラー海案内記」自体は港と積み込む物産の記録でとても短い。しかし読んだ本では注釈が膨大な量あった。比定されていない地名も多い。

エリュトラー海はギリシア語から来ていて紅海と訳されているが、当時アラビア海全体を指していたようだ。黒海が黒く見えるから黒海と呼ばれるのとは違い、北の黒海に対しての赤、ということらしい。紀元40~70年頃のものらしく、一方東方見聞録は、1271年から始まる旅の記録である。

これによれば、というか、この注釈によればアレキサンドリアから上流のコプレスと呼ばれるアスワン附近らしい場所まで12日。そこから紅海沿岸のベレニーケーまで陸路12日となっていて、そこから現在のイエメンのムーザ(現在のモカ)まで12000スタデキオンで30日の航海ということだ。

もっと南側のプトレマイオス(アキーク?)からメロエへ、アドゥーリー(ズラ湾)からナイル源流のアクスム王国などへ、ナイル川と交易がある港に言及しているが、この港からナイルの特産をエジプトまで運ぶ、ということなので、ナイル川を航行したわけではなさそうだ。

サウジアラビア側は、レウケー・コーメーと呼ばれる港がペトラなどの内陸への入り口になっていたようだが、そこからイエメンのムーサ(モカ)までは掠奪を受けたり、難破したりして、航海が危険だということだということで、エジプト側ベレニーケーなどに渡ってからモカに向かっていたようだ。ちなみにレウケー・コーメーの場所は分かっていないみたいだけ、ベレニーケーよりは北、ということになる。

マルコ=ポーロはどのルートをたどったのか?

 

マルコ=ポーロの時代よりちょっとあとの旅行記「三大陸周遊記」も見てみる。14世紀前半のイスラムイブン・バットゥータ旅行記

ミスル(エジプト)からメッカに巡礼をする。ナイルを遡り、アラクソル(ルクソール)、さらに上流からナイルを横断して、アトワーニーという町からラクダで15日かけて紅海沿岸のアイザーブに着いた。15日もかかるのは意外だけど、東方見聞録による30日の半分。

しかし紅海を渡ることが禁じられていたらしく、カイロに戻る。カイロからエルサレムを訪問したあと、陸路でメッカの巡礼を果たした。道中は襲われるので戦闘隊形をとる。

そのあとオアシスを伝いながらバグダードにむかい、イスパハーンを巡ると、再びラクダでメッカへの巡礼をして、ジェッダから紅海対岸のサワーキン島(?)に、そしてヤマン(イエメン)のサルジャ(とは?)へと航海している。暗礁が多いらしい。

そのあとサナーの都に行き、アダン(アデン)からソマリアの方に向かった。アデンはインドやエジプトからの商人でにぎわっていたようだ。

バベルマンデブ海峡を避けているのは、単にサナーに寄りたかっただけなのか、バベルマンデブ海峡を避けたかったからなのか?

 

「エリュトラー海案内記」の頃とは違って、イスラム教になり聖地メッカを中心とした陸路海路の巡礼ルートはあったようだ。メッカの位置するヒジャーズ山脈の山間部は水もあり、酷暑の海岸部と違って温暖。そしてナイル川までこのルートを使うとだいたい900kmでラクダが一日30km動けるとすると、ちょうどいい。

ちなみにヒジャーズ山脈はを伝ってアデンから向かうと1800kmになるので、ラクダで60日、ということになる。

 

どうやら「東方見聞録」で省略されたルートは、どうやらアデンから海路ジェッダに向かい、ジェッダから陸路でカイロに向かったのだろう。

 

ところで「東方見聞録」では記述がないけれども、マルコ=ポーロは帰路はホルムズから上陸したらしい。アルババシー(エチオピア)の紹介において、キリスト教エチオピアが、エルサレムへの巡礼者をアデンが捕らえたため攻撃して統治下においた、と記しているので、このあたりの情勢は不安定だったのかもしれない。

 

と、「三大陸周遊記」を読み進めていくと、そのあとまたメッカを巡礼する際に、紅海を渡って、ナイルを経てカイロに至るルートを何度か使っている!

 

「東方見聞録」で省略された、紅海のルートを思案するのは、まるで魏志倭人伝大和朝廷がどこにあったのかを考えるのと似ている感じで面白かった。

 

ところで、「エリュトラー海案内記」によれば、インドからエウダイモーン・アラビア―「幸福なるアラビア」arabia felixで現在のアデン)までは、かつては小さな船で湾に沿って航海していたのが、季節風により横断する航法を発見した、とある。ということで、「東方見聞録」での、アデンで小さな船に乗り換える、という記述は合っている。それにしてもこんな昔から季節風で航海していた、というのは驚き。

 

エリュトラー海案内記 & 東方見聞録 & 三大陸周遊記

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